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加藤さんが書かれた記事

仙台クラシックフェスティバルの出演者ブログで記事を見つけました。これまでに共演した数多くの演奏家について、大変興味あるお話がうかがえます。もちろん川村さんのお話もありましたので、その部分だけをここで引用させていただきます(元が無くなってしまっても大丈夫なように)。




(6)2006年06月30日

こんにちは、加藤です。自分がいままで一緒に音楽を作り、そして大きな影響を受け続けている素晴らしい音楽家たちについての話、今日はヴァイオリニストの川村奈菜さんです。
ブリュッセル在住で、ベルギー王立モネ歌劇場管弦楽団のアシスタント・コンサートマスター(女性だからミストレスですね)を務めていて、音楽監督である大野和士さんとの昨年の日本公演にも同行していました。これまでは自分より上の年代の巨匠たちばかり登場しましたが、彼女は私よりもずっと若い世代に属する音楽家です。しかし、誰よりも長い期間に亘っての大切な音楽仲間です。

1994年からブリュッセル音楽院に留学し、イゴール・オイストラフ氏の薫陶を何年間も受けながら、途中パリ音楽院の室内楽科の学生も掛け持ちし、卒業と同時に、その自分の学んだ音楽院で堀込ゆず子さんの助手として、たくさんの学生を教え、その後、モネ管に入団し、前述したポジションに就任しました。アシスタント・コンマスといっても、実際は多くのオペラやコンサートでコンマスを務めるようです。

今に至るまで一体どれだけの、ピアノとヴァイオリンのために書かれた作品を一緒に勉強し、演奏しただろうか・・・。

譜面はたいていヴァイオリン・パート1段+ピアノ・パート2段(増えるときもあるが)の計3段で書かれている。
ソナタと名付けられているものは、それぞれの音が緻密に関連しあい、反応しあって、3段のスコアで書かれた、隙間のない一つの作品として出来上がっている。ヴァイオリン・ソロとピアノ伴奏という発想、あるいは2人の奏者がそれぞれの個性を違った方向にぶつけて、お互い好き勝手に演奏するようなものを2重奏の醍醐味だなどとする感覚は、そのいずれもが実は、曲の書かれている姿を歪曲しているだけで、面白いときもあるが、作曲家がなぜ、どんなイメージで、何を伝えたくてその編成でその音楽を書いたのかというのが後ろに追いやられ、演奏家の姿ばかりが、その音楽自体がもっているエネルギーとは別の次元で、大きく前面に出てきてしまう。偉大な音楽を利用して、何かをしているだけだ。

もちろんヴァイオリン用のショーピースやヴィルトゥオーゾピースの場合は違っていて、オペラの舞台で華やかに演じているプリマドンナと、それを絶妙に支え、導くピット内のオーケストラとの関係のように”伴奏”をするのが、やはり最も譜面の求めているものを実現することになる。
しかし、この編成のソナタというのは室内楽であるにもかかわらず、なぜ、2つの楽器がそれぞれの持つキャラクターを演じながら、1つのものに融合していく作品なんだと理解されないことがままあるのだろうか。

たとえば、弦楽四重奏で同じように演奏して、聴けるものなどあるのだろうか。あるいは、一つのオーケストラで「この楽器はソロ、あとは伴奏」などということもありえない。
伴奏形というようなモティーフをある部分演奏している楽器があったとしても、それはいずれかの楽器に従属しているわけではなく、オーケストラ全体とのバランスを取りながら、その一つの作品を構成するパートに最適な表現を与えているだけだ。あえていえば、その曲に対して従属しているだけである。

二重奏は最も小さな編成にまで凝縮されたオーケストラのようなものと考えています。ただ、そこには指揮者はいません。だからこそ、お互いが音楽的によく理解しあい、遠慮せず同格に譜面全体を読み、融合して演奏し、初めて一つの音楽作品が姿を現してくる。

またあまり気心の知れていないもの同士が、単にテンポや、ダイナミクスのバランスを短時間のリハーサルでさっと整えるだけで本番を迎えたとき、その結果として、もしお互いが舞台上で音による会話をしていないのであれば、それは単に同時に始まって、同時に演奏し、同時に終わったというだけである。

私は2人以上で演奏するとき、「合わせる」とか「つける」とかいう言葉を使うのが好きではありません。リハーサルのことを「合わせ」と呼んではいますが・・・。演奏中にやっていること、それは「反応し合ってる」というのに尽きます。そして、まるでヴァイオリニストが弾いているかのようにピアノが聞こえ、ピアニストが弾いているようにヴァイオリンが聞こえるというのが最高の状態かな、と思います。

ここまで述べてきたことはみな、川村さんと一緒に講習会に行ってレッスンを受けたり、コンサートで一緒に演奏をしてきて、自分の中に強く埋め込まれてきた感覚です。
こうした意識の積み重ねに、その後出会った(今回取り上げているような)偉大な演奏家たちとの共演の際、どれだけ助けられたことでしょうか・・・。

最初に会ったときから、ピアノ・パートを蔑ろにせず、スコア全体に目を配ることができた人で、さらに後に彼女がパリで室内楽を習ったのは、イヴァルディ氏というピアノの名教師&演奏家でもあったせいで、なおさらそれは強固なものとなっていきました。どんなときもピアノのあらゆる音に反応しながら、そこにヴァイオリンという楽器ならではの表現方法、魅力を、彼女のパートに与えられた使命のようにして増幅させていくのです。

勝手に、自己を剥き出しにしているかのように演奏をすると、一見(一聴?)すごいテクニックとテンペラメントを備えた演奏家として大向こうを沸かせやすいのですが、演奏中に反応し合いながら、生まれてくるインスピレーションをそこに共存させ、美しい調和を保ちながら、自由な音楽を奏でていく方がはるかに難しく、高いレベルの音楽性とテクニックが要求されることです。こういったことを彼女の技術面から支えているのは(もちろん、音楽的欲求と結びついていない技術などはないのですが)、ボウイングで、まるで弓が弦に吸い付くようで、そしてスピード、重さ等を自在にコントロールし、どの瞬間の音も生き物のように息づいています。

ヴァイオリンを始めてある程度までは必要なことですが「弓は均等に使って弾くもの、均等に音を持続して出し、決して弦に当たる角度を変えてはいけないもの、浮かせるなんてとんでもない」・・・などという奏法が、いまだにどこかでまかり通っているというのを聞いたことがありますが、それではまったく変化のない、素材としての「音」しか出せない。

でも、彼女のボウイングは、それがたった一つの音でも和音が聞こえてくるし、それが次にどんな和音に変化しようとしているのかさえも分るように音を出します。
だから一緒に演奏しているときは、音さえ聴いていればタイミングから、次にどんな音色がふさわしいかまで全部わかるので、合わせるために「見る」ということが少なくてすみます。その上、彼女のヴァイオリンに反応しながら音楽の中に入って演奏しているだけなのに、出来上がる曲全体の姿というのは、最初にスコアを読みながら、一人で練習していてイメージしたものに非常に近いのです。
これは音楽の志向が重なっているからそうなるのでしょうが。

室内楽には本当に素晴らしい音楽作品がたくさんあって、あれも弾きたい、これも弾きたいという欲求があっても、同じような音楽性とスタンスを持った人に出会わないと、その作品に懐いたイメージをより多く実現できず、
お互い、それぞれのパートだけに満足を求めることになってしまいます。そんなわけで、彼女のようなヴァイオリニストにヨーロッパで出会うことができ、自分がソロを弾くときの意識となんら変わることなく、たくさんのヴァイオリンとピアノのための作品に演奏の面から接することができたことは大きな宝です。

よく、「ソロと室内楽、伴奏でどのような違いがあるか?」と訊かれることがありますが、その楽譜の求めている最適だと思える表現をしようと努力しているだけなので、どんな演奏形態であってもまったく変わることはなく、重要なのは、それがどんな音楽かだけであり、私にとっては編成などより、モーツァルトとベートーヴェンの違いのほうがはるかに大きいです。

彼女の旦那さんは、ブリュッセルで一緒に学んでいたスペイン人のチェリストで、やはり音楽的感性に溢れた人で、音楽への敬愛と献身的な姿勢に共感することが多く、時々3人で一緒にトリオを演奏することもあります。
もうすぐもう一人家族が増えるようで、そのせいかどうかわかりませんが、3月の末にブリュッセルに行って久しぶりに一緒に演奏をしてみたら、以前よりもさらに暖かくゆったりとした、母性の滲み出てくるような音楽を奏でていて、とても幸せな気持ちにさせられました。

日本で彼女のことを知っている音楽ファンは決してたくさんはいないと思います。「知名度と実力が必ずしも一致するものではないという傾向は、昨今ますます強まっているのではないか」と感じている人が多いと耳にしますが、彼女のような、本物の音楽を持ったヴァイオリニストの演奏を、一人でも多くの方に聴いてもらう機会があることを願っています。

それにしても・・・・・

火曜サスペンスや土曜ワイドの好きな彼女は、日本から送られたビデオをよく見ているが・・・・・
同じ回のをあんなに繰り返し見てて、何故飽きないのだろうか・・・・・
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by nanaviolin | 2010-08-02 03:45 | 情報玉手箱